COLUMN

コラム

 ヴィム・ヴェンダースにとっての精神的な師でもある映画監督フェデリコ・フェリーニは自伝のなかで、「映画」のもっとも重要な価値は、その誠実さ、真摯さにあると語っていた。映画とは、人間の経験の真摯な目撃者であるべきだ、と。写真もおなじである。目をおおいたくなるような暴力が目の前にあるとき、それを万人が等しく目撃するための媒介として、映像や写真は唯一無二の意味をもつ。だがそれは基本的に寡黙だ。それは状況への感情移入を声高に求めたりはしない。安易な共感を押しつけることもない。それは目の前にあるもの痛みや苦しみを静かに受けとめ、それらと真摯に繋がろうとする努力を見るものに促す。フェリーニが言う映像の誠実さとはこのことであろう。ヴェンダースもまたこの慎ましい哲学の信徒であり、彼の撮るドキュメンタリーはつねに現実にたいする真摯さにあふれている。
 ヴェンダースが、写真家セバスチャン・サルガドとその作品に深くとらえられる理由もまたここにある。サルガドほど、現実がどれほど厳しく悲惨なものであっても、この視線の真摯さを守りながら写真をとりつづけてきた者はいない。彼の写真はひたすら目撃してきた。富める社会から疎外され、周辺に追いやられて肉体労働に苦闘する人間たちを。紛争、戦争の暴力に苦しむ土地と人々を。そして、故郷を追われ、流亡の途にあって尊厳を失うまいと闘う人々を。彼の写真をつうじて私たちは、この地球上にたしかに、そうした苦難の状況のなかで生きる人間たちの尊厳が存在することを知り、そうした人々と自分たちが繋がっているのだという事実に目覚めてきた。私たちの倫理も責任も、すべてそこからたちあげられねばならいことを、私たちは知ることになった。
 だがいま、サルガドはいままで彼が目撃してきたものの対極にあるものを彼の写真の対象としてあらたに選び取った。地球という惑星である。大地がいまだ、人間によって踏みにじられる前の姿。人間たちの苦闘のはるか彼方で繰り広げられる、圧倒的な自然の無垢のダンス。地表の半分近くがいまだにそうした土地である、と私たちに教えるために彼はあらたにカメラを取り、処女地へと向かった。そのプロジェクトを彼は「ジェネシス」(創世)と名づけた。
 サルガドの新たなプロジェクトは、彼が今までつきあいつづけ、執着しつづけてきたヒトという生物種ではなく、人間世界の外部に広がる、野性とイノセンスがいまだに支配する領域だった。「ジェネシス」のプロジェクトをスタートさせるためにまずガラパゴス諸島に出掛けたサルガドは、活火山が林立するイサベラ島でこの島の盟主であるガラパゴゾウガメと出逢う。人類がこの島に流れ着くはるか以前から、生物進化の独自の道程を数百万年かけて歩んできた生命体。ヒト以外の対象に始めて写真家として向き合ったサルガドの、新たな問いかけと啓示の長い物語がここから始まった。ヒトではないものと、いかに心を通わせ、その言葉にならざる声を真摯に聞きとるのか、という問いである。
 始めのうちはすぐに逃げてしまったゾウガメだったが、サルガドが地面にひざまずき、亀とおなじように四つんばいで這い回りはじめて何日かす

ると、写真家を異なった目で見るようになった。明らかに、亀の目には仲間への愛情のような眼差しが生まれていたという。それを受けてサルガドにも、この、ダーウィンとも出逢っていたかも知れない二百歳ちかい老亀への敬意のようなものが静かに湧きあがってきた。叡知を感じさせる眼差しとともに亀がこちらを鋭く一瞥するガラパゴスゾウガメの写真は、こうして生まれたのだった。
 隣のサンタクルス島で、彼は水中を自在に泳ぐ能力を身につけた驚くべきウミイグアナと出会い、その輝く鱗をもった五本の指を撮影する。その指の優美で野性的なかたちのなかに込められた「意志」のようなものを彼は感じとった。人間だけが知性を持った生物であると教えられてきた思いこみが、そのとき彼のなかで瓦解する。いかなる生物も、それ自身の固有の知性、理性を持つのだ、という直感のような思いが、ほとんど確信のようにして彼の脳裏を襲う。いやそれだけではない。ついには、いかなる土地も、石や水のような無機物も含めて、その風景すべてが理性を持った存在なのだ、という深遠な事実が、彼に静かに近づいてくるのだった。徹底して人類の厳しい現実に介入し、それに寄り添い、自己存在の危機すら味わいながら四○年を人間を相手に写真家として生きてきたサルガドだからこそ、いま理性という人間の所有物を森羅万象に向けて解放することもまた、できるのであろう。
 サルガドは、最近刊行された自伝『わたしの土地から大地へ』のなかでこう言っている。写真家はつねに自分の出自を糧にして撮るのだ、と。出自とは故郷であり、祖父母であり、父母であり、家族である。自分の無意識が湧き出る、もっとも親しく、澄みわたった、それでいて荒々しくも野生の泉である。だからこそ、子供時代を過ごしたブラジル内陸の故郷の谷の光が、彼の写真の光のすべてのもとにある。彼の写真はみな、故郷でつくられたものの反映である。ヴェンダースがこの映画で、サルガドの印象的な作品群を丁寧に紹介するとともに、故郷アイモーレスの森や農場で憩うサルガドの日常の姿をみずみずしく写しとっていることは象徴的である。サルガドの長い亡命と海外生活のあいだに旱魃や乱開発で失われてしまった故郷の農場の森。それを植林によって再生させることで、サルガド自身の写真家としての深い傷が癒されてゆくのもとても意味深いことだろう。
 ダウン症の障害を持って生まれ、サルガド夫妻や家族のその後の生き方を決定的に変えることになった息子ロドリゴ。彼の姿が、本作のなかに控えめながら映し出されていることにも惹かれる。サルガドの写真家としての本質的な謙虚さは、まさにロドリゴのような弱く繊細にして、同時に別種の能力を隠し持った一個の聖なる生命を自らの傍らに得たことによって、はるかに深められたにちがいないからである。これもまた、宿命のようにして自らへと与えられた、一つのあらたな家族的源泉であった。
 こうして故郷の土地(テーラ)は、まっすぐにこの地球(テーラ)へと繋がっている。小さな、懐かしい緑の土地(テーラ)から始まったサルガドの旅は、いまついに真の地球(テーラ)へと到達したのである。